豊福多美子のセラピストになるまでの人生物語

初めまして。フィールハートの豊福多美子です。
私がセラピストになるまでの人生の物語を書きました。

なぜ私がセラピストになったのか?
それは幼少期からの特異な体験が関わっています。
その特異な体験と私のセラピーに対する想いを聞いて欲しいと思います。

それではここからはじまりです。

私は1964年東京オリンピックの年、神戸で産まれました。

両親は大恋愛の末、母は親の反対を押し切って結婚したそうです。
そんな中、最初に産まれたのが私です。

幼いころの両親は、自宅があるにも関わらず、家では生活をせず父の姉の所に住んでいました。

父は、仕事も遊びも多かった事も大きな理由だとは思いますが、両親が育てるというよりは、5人の子供を持つ子育て熟練の伯母に頼れるから・・・という事が大きかったのです。

私の乳児期は、第1子でありながら、大家族の6番目の末っ子のようなあまり丁寧ではない扱いで育ちました。

ですが、泣けば、常に誰かに構ってもらい抱っこされていたそうです。
私は、ハイハイをする頃になると、伯母に対して、後追い行動をしていたそうです。

使命感を感じた3歳の頃

父の実家であるおじいちゃんの家によく行きました。
私はおじいちゃんが大好きでした。

私が3.4歳のころおじいちゃんは歩けなくなりました。
私はその頃から、自分のはっきりした意志や自分の考えがありました。

おじいちゃんの事が心配で、おばあちゃんには、おじいちゃんを任せておけないと思うようになってその想いが消えませんでした。

「私がおじいちゃんを助けないといけない」

そう考えて、家を出る決心をします。

一般的には4歳の子供の決心、親も許すわけがありませんよね。
許したとしても、何日かで泣いて帰りますよね。

私は、1年ほど家に帰りませんでした。
今思うと親も親です。

私の仕事はもっぱら、おじいちゃんにシビンを渡すか、テレビのチャンネルを変える位だったと思います。

それでも、私はおじいちゃんのそばにずっといました。
おじいちゃんは、時々「寂しくないか?」と聞いてきましたが

私はその意味が分かりませんでした。
おじいちゃんのそばで寂しいわけがありませんでした。

おじいちゃんとの時間は私にとって、「何もないけど何でもある」そんな温かい時間でした。

5歳位に家に帰りました。

幼稚園に行くためです。

幼稚園や小学生1.2年生の私は、身体もどこへ行っても一番小さく、
ちょっと泣き虫でどちらかと言えば気の弱い子供でした。

男の子が乱暴で私を攻撃したらすぐに泣いてしまうのに、おかしなことに(自分は本当は大人だ・・・年寄りだ・・・子供達には困る、)と思っていました。

幼少期はこの問題で、若干の生きづらさを抱えていました。

よく泣いているけど、どこか子供らしくない私は、大人たちからはもっと子供らしい振る舞いをするように求められました。

だからみんなみたいに無邪気な子供らしい元気な感じに憧れました。
いつも普通を探していました。

まことくんはどこにいるの?
小学1年生になりました。

父は言いました。

「お父さんにはまことくんというよく言う事をきく賢い子供がいるんや。君らもまこと君のようになりなさい。」

父はほとんど家にはいません。
仕事だと言ってあちこちで遊んでいるような父でした。

だから私にとって父は、親という親しい感覚は小さなころからありませんでした。
父に大きな声で怒られた事もほとんどありません。

私は心のどこかでまこと君をイメージしながら、よい子を意識していました。
わがままを言いなさいと言われるより簡単な事でした。

小学生になると、少しずつ生きやすさを感じ始めました。

相変わらず、同世代の子は自分勝手に見えましたが、みんないろんな困った想いを抱えているのがわかりました。

私は困っている様子の人の手助けをしました。

なぜか友達の秘密を聞かされ、誰にも言わないでと言われたら誰にも絶対に言いませんでした。

大人の秘密もよく聞かされました。

老若男女誰にでも一律の優しさ、みたいなものを提供するのです。
そうすることで私は重宝されました。

優しくてよく気が付く真面目なおとなしい人になっていきます。
この繰り返しが、私の生き方になっていくのです。

人の欲求を受け入れていくという、やっと自分の生き方を見つけた、生きやすさを感じていました。

お金持ちぽい暮らし

小学2年生のころ、家の暮らしぶりが変わっていきました。
父の事業がとてもうまくいっていました。
父も母もとても興奮した顔をしていました。

岡本のマンションに引っ越ししました。
昭和40年代に食洗機がありました。
各部屋にクーラーがありました。
家に御用聞きの人が来ていました。

時々帰ってくる父の御飯は殿様のようなお膳の御飯でした。
2歳の妹はセロテープの歌を歌っていました。
「セロテープを三千万円で買いましょう。」と

私はどこか嫌な予感を感じていました。
浮かれている親たちが怖いと思っていました。

私の愛読書は二宮金次郎でした。
貧乏に負けない真面目に勉強している金次郎、優しいお母さんにも憧れました。

差し押さえを体験した3年生

小学3年生の頃、父の会社が倒産をします。
高度成長期の後のオイルショックの時代です。
そこから私の暮らしは一変します。

ある日、差し押さえというものを体験しました。

怒り狂う母を見ました。当時は、自分に向けられた怒りだと感じましたが、
大人になって、母の怒りは、父に対してだったのだ、と気が付きました。

なぜなら、父はこの場にいなかったのです。

その後、夜逃げを経験しました。
何もなくなってしまった家から家族4人で、音に気を付けながら、そっと夜に出ていきました。

この時も父はいませんでした。

そして夜行電車で九州に向かいました。

電車の中で、「冷蔵庫もない家具もない暮らしになるから、
覚悟しないといけない」
と母に言われました。

ところが、家に着くと今まで以上の家具がありました。
当時の父の愛人Fさんがここでの暮らしを用意してくれ、生活費も私たち家族にくれていたそうです。

20代になって偶然親戚から聞き驚きました。

両親は偽装離婚をしました。
私は母の旧姓を名乗るように言われ、名前が変わりました。

家では、父と暮らしていますが、このことは学校にも友達にも絶対に秘密だと言われました。

「誰かにばれると怖い事になるよ」と母に言われ、決して言わないように約束を守りました。

でも時々、学校でうっかり父の事を言いそうになりとても苦しかったです。

こんな状況の中両親は、働かずずっと家にいました。

今まではほとんど家にいなかった父が、毎日家にいて心なしか母がうきうきしているように見えました。

家族は誰も気が付いていませんでしたが、この頃私には、夢遊病的な症状がありました。

夜中に起きて歩いている自分や起き上がって身体を動かしている自分に気が付き怖くなりました。

そんな暮らしが何カ月か続いたころ、例の伯母が私たちを探し見つけ、九州の家まできました。
「心配したよ」と伯母は泣いていました。

しかし、この後、伯母の提案で本当に離婚をして、両親は離れて住む事になりました。

晩年父は、自分の離婚を伯母のせいにし続けて、何度も繰り返し恨み事のように言っていましたが、私はこんな重要な事を人のせいにする父に呆れました。

生きるつらさを味わった4年生

父とは離れて住むという理由も聞かされないまま、母と弟妹と私は、母の実家の加古川市に住む事になりました。

また転校です。
ここでの暮らしは私の人生の中で一番つらかった時代です。

母は少し太めな人でしたが、綺麗な人だったので、男の人も寄ってきました。
子供の私から見ても、母がどんどん女性になっていきました。
男の人が家に泊まっていくようになりました。

私はいつも何か恐ろしい事が起きそうな予感で気持ちがふさぎ、ご飯を食べなくなりました。
7つ離れた妹の3歳の妹のズボンが入るほど痩せていきました。

4年生の夏、縁日に行き可愛いヒヨコを買ってもらいました。

とても嬉しかったのを覚えています。
でもどんどんヒヨコは弱っていきました。

友達の家のヒヨコはふわふわ可愛く育っているのに、うちのヒヨコは
身体に水がかかり、びちゃびちゃになっていきました。

母に何とかしてほしいと頼みましたが、「仕方ないやないの」と言われ、毎日弱っていくヒヨコを苦しい想いで見ていました。

ある日学校から帰るとヒヨコは死んでいました。
私は、そのヒヨコが自分みたいだと1人で泣きました。

そんな時、とうとう事件はおきました。

夏休み、私たちは、例の伯母の家に遊びに行く事になりました。
母と4人で電車に乗って久しぶりに元気で嬉しい気持ちでした。

伯母の家の近くまでタクシーに乗り、下りる時、
母は、「妹を連れて用事があるから、先に行ってきて、お母さんは後から行くから」と突然言いました。

私と弟は、うなずき、タクシーを勢いよく出て、路地を走って伯母の家に行きました。

それっきり母とは1年以上会えませんでした。

どうやら母は、私と弟を置いて、よく泊っていた男の人と駆け落ちの予定があったようです。

私は「絶対後で来る、と言っていた」と伯母に断言しましたが、夜になっても帰ってきませんでした。

伯母から、仏間に私だけが連れていかれ、
最近の母の様子について根掘り葉掘り聞かれました。

もう話すしかない・・・と思い、私は事実を話しました。

そして、次の日の夜、また私だけが仏間に呼び出され、「お母さんはと妹を連れて男の人とどこかへ行ってしまった」と聞かされました。

父は近くに住んでいましたが、またこの場にいません。
小学4年生の夏休みの事でした。

私と弟は母に捨てられたんだと思いました。
実際は、駆け落ちの場所に、相手の男の人は来ず、母は実家に戻ったようですが、父や伯母はその事を教えてはくれませんでした。

だから大人になるまで、そう思って生きていました。

幻聴が聞こえる親戚の家で暮らした4年生

今度は伯母の家に住む事になりました。
また転校です。名前もまた父の名字に変わりました。

父は別の家庭を作っていました。
九州での暮らしを支えてくれて愛人Fさんとそこ子供Yちゃんと暮らしていました。

私と弟は週末になると、父の家に行きました。
妹と同じ年のYちゃんの事を可愛がるように言われていました。
妹はどうしているのか・・・心配でした。

泣いたりすると伯母たちに迷惑がかかるのが予測できましたので、表面的には何事もない顔で暮らしていました。
居場所がありませんでした。

Yちゃんは、父の事を「パパ」と呼んでいました。
伯母に聞くと「あの子はお父さんがいないから誰でもパパと言うんだよ」と教えられました。

でも私が中学になるころ、母の母である祖母から、「あの子はお父さんの子どもやで、兄妹たくさんおっていいな、お母さんに内緒やで」と教えられました。

母と祖母は血が繋がっていません。養女なのです。
祖母は私に意地悪をしたのでしょうね。

今なら意地悪だったのだと分かりますが、その時の私の想いは、「母が知らない事を聞いてしまった・・・」と動揺しました。

小学6年生になる頃、私は幻聴が聞こえるようになっていました。

静かになると聞こえてきます。怖くなって伯母の娘のいとこのお姉ちゃんに打ちあけました。怖いものを見る目でお姉ちゃんは私を見ましたが、

恐らくこのことがきっかけで、母と暮らせるようになったのです。

母との再会はある日の日曜日でした。

1年ぶりに会う母は、誰か分からないほどの外見でした。
くるくるパーマで化粧が濃く、煙草を吸っていました。

再会の時、母は謝ったり泣いたりするのかと思っていましたが、全くそんな様子はありませんでした。

小さかった妹は、1人でリボン結びが出来るようになっていて、妹の成長に涙が出ました。

犠牲的な生き方がスタートした6年生

そこから、母と弟と妹と暮らしが始まりました。
家はお風呂もない古いアパートでした。

だけど私は、母と暮らせて幸せでした。
幻聴もなくなりました。

母は1人で働いているので、私はいろいろ家事もするようになりました。
勉強をしても褒められませんが、家事や妹の面倒をみると褒められました。

たまには父も遊びに来るようになりました。
両親はまた夫婦に戻るのかな…と期待していました。
でも平和な日は長く続きませんでした。

また知らない男の人が泊まりに来るようになりました。

微妙な家のムードに私はまた、母がいなくなる心配をしていました。
今度は母の様子に気をつけるようになりました。

母の欲求や頼まれた事は嫌とは言いませんでした。
気が付く事は何でもやっていました。

家を片付けるのも私の仕事になっていました。
結婚して妊婦だった時も、実家の大掃除をしている私でした。
条件反射みたいなものです。

親に対してだけでなく、この条件反射はいつでもありました。
誰かがしんどい目に合う位なら、私がやる。と率先して行動していました。

結婚してからも、どんな時も、なぜこんなに自分が、誰かの為に必死になるのか…考える事もなく、
身体を壊すまで犠牲的に人に尽くす生き方の癖として続きました。

話は戻りますが、母は、父よりこの男の人を選びました。

お正月、父が朝から来るのを知っていて男の人を泊らせました。
朝、何も知らない父がやってきて・・・・・・。

私は父を靴も履かず追いかけました。
父は私に大声を出し、怒りをぶつけました。
父の感情的な大声を初めて聞きました。

家に戻ると、弟妹達は普通の顔でお雑煮を食べていました。
私は何も言えず、うなだれてお雑煮を食べました。

ある日母は「再婚しようかな?」と中学生の私に言いました。
仕方ない・・・と思ったのですが、私の口から出たのは、

「再婚するなら、家出する」という言葉でした。
自分でも言いながら驚きました。

随分経ってから、再婚は?と聞いたら、
「あんたが家出するって言うたやんか!!」と言われ、私の家出なんて何の効力も無いと思っていたので、すごく驚きました。

その後、中学2年生になり、お風呂があるアパートに引っ越しをしました。
その頃から、母が母になったように見えました。

生きやすくなった会社員時代の私

そんなぱっとしない子供時代でしたが、そんな感覚で高校卒業後、社会に出たら、ものすごく重宝される人間になりました。

そして人間関係の中では、献身的に努力する事が当たり前だと思っていたので、人から肯定的な言葉しかもらわないほどでした。
いつも誰かに喜ばれご愛顧頂いていました。

だから会社員時代は、一気に世界が変わりました。
子供時代の生きづらさはなくなり、とても楽しかったです。

仕事が失敗したとしても、他の人が評価をされていたとしても、くさくさせずに努力するわけですし、仕事が出来て、褒められてびっくりするほどの昇給をしても、自分に対しての自己評価は上がらないので、もっと頑張り続けるわけですし・・・。

小学生時代の5校の転校は、人見知りをしない、場を読む言動をする、事を学んだのでしょうか。

会社員時代は得意先の方々や上司から指名を受け、接待係として、夜の街に連れていかれていました。笑わせる、歌う、一緒に踊る、お酒を作る、ご希望の感じで動いていました。

しかし、子供時代の経験が、男性とのお付き合いにとても影響しました。
「好きな人は私を捨てるに違いない。永遠に続く関係などあるわけない。」と思っていました。

だから男性と付き合い始めると、すぐに怖くなっていつも私から別れを切り出していました。

犠牲的生き方に拍車がかかる結婚時代

相変わらず会社や友達から重宝される日々を送りながら
私は25歳に恋愛結婚しました。

その後一男一女に恵まれて、お母さんという経験もさせてもらいました。
20年の姑との同居や阪神淡路大震災なども経験しました。

子供たちの成人後、25年の結婚生活を経て離婚に至りましが、

元夫には、出会ったときから男性に感じるいつもの怖さを全く感じなかったのです。

なぜなら、元夫は、自分の欲求がはっきりした人だったからです。
欲求を言ってくれる事で、自分の役割がはっきりして不安がなかったのです。

もちろん当時はそんなこと気づきもしませんでした。
むしろ、そこが私にはない魅力にさえ感じたものです。
その頃の私にとっては、本当にしっくりくる相手でした。

だから私にとって、暮らすということは、自分が我慢をして、相手の心地よい状態を作ること、そしてこれが普通になり、また欲求が増えると応じるのです。

そんな生活が15.6年続いた頃、私はこの暮らしに不満も感じず、だけど、徐々に自分の意志や欲求がなくなっていくのです。

元夫の間には、話しきれないほどのいろんな事がありました。

そのたび乗り越えまた頑張ればいい、きっと私は幸せなはずだと、信じ暮らしていました

40歳になる目前に、数々の原因不明の身体の症状が表れ始めました。

体調不良はひどくなる一方なのに、
私は人に迷惑をかけないようにする生き方の癖があるため、表面的にはいつも笑顔でした。
だからもちろん誰にも気が付いてもらえません。

自分では、毎日今夜のうちに死んでもおかしくない・・・と思う位のしんどさでしたが、誰にも理解されることはありませんでした。

何軒ものお医者様にも病気ではないと言われていて、本当に困惑し、心は、悲しい気持ちで苦しかったです。

この身体の不調の原因が、心にあると気がつくのに、約10年の月日がかかることをその時の私は知りませんでした。

自分欲求が分からない40歳の頃

私の様子に、元夫にこれからは好きな事をしたらいい、と言ってもらい、ホッとした気持ちもつかの間・・・・唖然としました。

なぜなら、好きな事どころか、何が食べたいか、今何を感じているか、悲しいのか、つらいのか・・・全く何にも感じなくなっていました。

人の欲求ならすぐにわかるのに、自分の事が全くわからないのです。
焦りました。

時間をかけ、考えました。
だけどやっぱりわかりません。

手始めに、今まで親からも元夫からも絶対駄目だと言われていた運転免許を取ってみようと思い立ちました。

その後、仕事も何か好きな事を・・・いろいろ考えてみましたが、何も浮かびません。

その時ふと、
私の人生に、繰り返し起きてくる事ってなんだろう?と考えました。

人から相談されたり秘密を打ち明けられたり・・・・
これだけは子供時代から増える一方でした。

固定電話の時代、毎日多い時は5.6人の友人から電話が掛かってきていました。

人の話を聞くという仕事をしてみようか・・・と考えに至りました。

そして、私は、2004年40歳の時に、カラーセラピーを通して心理学と出逢いました。

しかし、不調はまだまだ続いていて、寝込む日も多かったです。
当時は「自分の体力のなさが原因だ」と思っていました。

今振り返ってもその頃は、セラピストや心理学を教える講師が生業になるとは想像もしませんでした。

とはいえ、14年の月日、セラピストや講師の仕事が途切れることもありませんでした。

だから、不調を感じながらも、毎日サロンの仕事や外部講師としての仕事、家事、子育てなど、普通にこなしていましたが、いろいろな事が重なり、自分の限界が来てしまいました。

本当の自分を感じた48歳

2012年、単身姫路に移住して、その後離婚しました。

姫路に一人で住むようになってからは、常に自分との対話でした。

人の為だけに生きていた私が、初めて自分だけの為だけを考えたように思います。
その後、身体の不調は全てなくなりました。

「自分の本当の心を感じない生き方が、心や身体の不調を招く」と身を持って知ったのです。

自分自身が本当の自分に出逢い、自分として生きると言う事を経験し、

「自分の本当の心に出逢える事が、幸せの第一歩である」と気づくに至りました。

また、私はこの考えを突き進め、「本当の自分の心を感じながら生きていく事」それを自分自身の生き方として実践し、追求していきました。

「本当の自分」を感じ続けることは、今までの自分自身の人生の中で常識だと思っていた事への違いや違和感も多く、この考え方を持つことで、周りとの不調和を起こすのではないかという怖さも感じました。

実際、友達や家族、親戚からの意見の相違や、様々なアドバイスを受けることによって、何度も「やはり私の方が何か間違っているのではないか」と不安を抱えていましたが、毎度、最後は自分を信じて実践しながら、セラピストとしての仕事、日々のカウンセリングやヒプノセラピーを行ってきました。

すると、今まで以上に多くのお客様の「辛い気持ち」や、「うつ症状」がみるみる改善されていきました。

初めは、偶然の結果かと、思っていましたが、お客さまからの喜びや感動のお声をたくさん頂くことで、はっきりと自分の行ったセラピーの結果だと実感しました。

その結果、身体の不調が全て改善された私の経験と、たくさんのお客さまのカウンセリング・セラピーの結果から、私自身の考え方は間違いではないと確信に変わりました。

この経験から、子供時代から元来持っていた「少し人と違う感覚」、「特殊な環境からの学び」に、「人の心理への探求」と「本当の自分を感じる生き方」がミックスされた自分になり、生きづらさを抱える皆さまを心から理解できるのは自分しかいないという、今まで以上に強い気持ちに至りました。

「本当の幸せとは何なのか?」
「 うつ症状はどうして起こるのか?」
「原因不明の身体の症状はどうして起こるのか?」
「クライアント様達はどうしてこんなに自分に対して否定的なのか?」

クライアント様が持つ「生きづらさ」と「自己否定感」への探求がさらに、始まりました。

2016年、もっと多くの人に本当の自分に出逢ってほしいと思う気持ちと、今苦しまれている方のお役に立てるよう、私の頭の中だけにあった、「独自のカウンセリング技法」と「本当の自分の心を感じる方法」を知って頂きたい想いで、
フィールハート式カウンセリングとして確立させ、フィールハート認定セラピストの育成も始めました。

全てはクライアント様との時間が、私の何よりの勉強でした。
私は、皆さまの生きづらさの症状を、フィールハート式のカウンセリング・ヒプノセラピーでたくさん教えて頂きました。

たくさんのクライアント様の歴史、苦しめる理由の発見、改善に繋がる変化の
流れ、全てを記憶するように勉強し研究してきました。

その結果、どんな症状にも理由がある事を理解しました。
生きづらさや自己否定感は性格ではない、と確信しました。

生きづらさを抱えるかたへ

フィールハートに来られる自己否定感に苦しむかたは、どんな事情の場合も人のせいにせず、自分のせいにして生きてこられた、優しく心の美しい人ばかりです。

私にとって、そんな人達が、生きづらさを抱えつらい目をするという事は、きいていてとても悲しい事でした。

私は、日々サロンの仕事や講座などで、その人達こそ、自己肯定感を感じてほしいという想いで、その人の自己否定感の成り立ちをひも解いてきました。

私はその人の成り立ちをひも解く事で、皆さん自身が自己否定感を手放し、自ら変化されたのです。

私は、この人達こそが、本当の自分に出会い、自己肯定感を感じ自分に自信を持って、社会の中で幸せを感じて生きてほしいと今までずっと願ってきました。

その事から、
2018年生きづらさを生みだす「自己否定感」の本当の理由を発見しました。
2019年「フィールハート式自己否定感心理診断テスト」「自己否定感解放セラピー」なども同時に作り、「フィールハート式自己肯定感を感じる私の育て方講座」を開講しました。

自己否定感を持ち生きづらさを感じている人が、自己肯定感を感じ、本当の自分で生きていけるようになる事を応援するのがフィールハート式なのです。

そして、生きづらさで苦しむほとんどのかたが、自己否定感を持っている事が理由で、自分が苦しく生きづらいとは認識されていません。

なぜか、自分だけ生きづらい、自分だけがこんなに苦しい、自分はどうして出来ないのだろう、と苦しい気持ちで生きておられます。

自己否定感で苦しむ優しく心の美しい人達が幸せに生きられるためには、
自己肯定感を感じて頂く事が必要です。
自己肯定感は(優しくて)強い心を育てます。

何歳からでも遅くはありません。
そして私はそんな人達が、自己肯定感を感じながら生きる事が、
平和な社会・平和な世界を作ると信じ日々セラピストと講師業をさせていただいています。

生きづらさ、人間関係や自己否定感でお悩みのかたはフィールハートにぜひお越しください。

長い自己紹介になってしまいました。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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